だいたいうろ覚え

物忘れが激しくなってきたので備忘録

去年の冬、きみと別れ 中村文則

ネタバレ普通にするから未読の方は気をつけて。

最初の数ページを読んだ時から、「この本は何回か読み直さないといけない本だな」と感じさせる本だった。芸術と人間のはなし。こういう芸術の話に弱いかもしれない。内容は後で触れるけど、形式がまず面白かった。

この話は資料を並べたような形式で進められていく。そしてこの資料がなんなのかというのは終盤で明かされていく。躊躇せずネタバレをすると、この小説自体が作中人物の作った作品なのだが、そうだとするとこの資料の信憑性についてまず触れないといけないだろう。こればっかりは疑い出したらキリがないのだが、おそらくある程度の脚色を除き嘘の資料は混じっていないんじゃないかと思って読んだ。なぜなら編集者である方の「僕」にとってこの作品は吉本亜希子への報告書でもあるからだ。

形式について面白いなと思ったのは、単純に資料が挟み込まれていたからではない。

殺人容疑で死刑囚となった木原坂が写真について語るシーンがある。

蝶から目を離す。その時の蝶を、僕は所有していない。もっといえば、右側から撮った時、左側の姿を僕は撮っていないことになる。ならビデオを撮ればいい、と思うだろうか?違うんだ。僕が欲しいのは一瞬だから。その蝶の、一瞬が欲しいのだから。でもその蝶にとって一瞬は無数にある。僕はその全てを、撮ることはできない。(23p)

(写真だろうとビデオだろうと同じことでこぼれ落ちるものはあると思うのだけど)

このシーンがこの小説自体を象徴しているようで印象深い。所有、っていうと欲要素が強すぎるから一旦知覚と言い換えてもいい。なにかを知覚しようとするときに私たちはたったの一面しか見ることができない。例えば蝶を一周回ってみたとして、仕組みや構造は理解できるだろう。しかしそれは生きている、目の前の蝶の一瞬を得たことにはならない。同様に、幾多の資料を織り込まれているこの小説だってそうだ。見ているのはあくまでも一面に過ぎない。これだけの資料がありながら、ひとつの出来事を同じ時間で別の人物の視点で描かれたりもしない。読者側はこの小説によって再現されている出来事を所有することは絶対にできない。

 

この小説は芸術について、というより恋愛小説としての側面が強い気がする。もちろん芸術の話というのが大枠ではあるけど、対象が実在するものだからという条件が大きいと思う。

絵でも、小説でも、写真も彫刻も、好きな人を対象にするってどうしてあんなに楽しいんでしょうね。輪郭をなぞるたびに自分に対象を馴染ませるような心地よさがある。それは所有欲の現れでもあるし、対象とは離れたところに自分の好きにしてもいい対象βを創り出すというある意味倫理的な試みなのかもしれない。

ニセモノとホンモノ、という二元論もこの作品の中で大きな割合を占めていたと思う。普遍的な話としてどちらが優れているか?超えているか?については主観の話でしかないからあまり意味がない。というよりモデルがあるなしに関わらずそれはもう別の作品であるのでモデルとは別軸で評価した方がいい。(そういう意味ではメディアミックス作品が「いかに原作通りか」で語られるともやもやする)大事なのは木原坂が誰かにとってホンモノになりたかったということ、なのかなあ。ホンモノと認められること。作中に出てくる作文では他所の家族の子供に自分になりかわったとしても自分はホンモノの子供足りえないということだった。承認欲求に似てる気もする。木原坂は「欲がない」なんて評されているけどそれは何をどう表現するかというアウトプットの欲であって、他人にとって自分はどうでありたいのか、自分は他人をどうしたいのかという欲はすごく感じる。無数の蝶の写真を撮っていた時、彼は何を考えていたのだろう。

芸術のためにどこまで犠牲を払えるかという話であれば、まあ倫理的に死なせちゃダメだろ、に尽きるけど、倫理なんて時代によるものだしなんにも明言できそうにない。ただ、倫理の枠を飛び越えたり狂気を手に入れなくても素晴らしい芸術は成り立つということは信じたいな…

「心配するために好きになった」なんて言われて編集者の「僕」はショックを受けていたけど、大なり小なり皆そんなもんなんじゃないか…とも思う。そのひとがいることでなんらかの満たされる欲があって、それ故に一緒にいることを選んだりなんだりするわけで……。というか、恋愛感情を分析できるほど人は一回の人生でたくさんのひとを愛するのだろうか?

 

もっと書くべきことがあるのにうまくまとまらないなあ。こういう作品読むと読者会がしたくなる。読書会…大学生の時にやったのは「意見が違うやつ全員殺す!」みたいな人ばっかりで怖かったから(笑)もっと穏やかなやつがいいです。