だいたいうろ覚え

物忘れが激しくなってきたので備忘録

ルドベルの両翼 おぼんろシネマミュージアム

池袋にて開催中のおぼんろシネマミュージアムより、ルドベルの両翼を観劇。

おぼんろさんの作品は、リュズタンに引き続き2作品目の出会い。開始が10時だったので、この時間に見るのってなかなかないしなんだか新鮮でした。

全体的に驚いたのは、末原拓馬さんの空気感って本当に唯一無二ということ。入場するとき検温をしていたら横を「おはよー!」と言って通り過ぎて行ったのでまずびっくり。(返せなかったけれど、おはようございます)終わった後も階段の上からやってきて物販のスペースに消えたと思ったらまた階段で降りてきたので本当に驚いた。一緒に行った友達は「どこでもドアでも使ったんですか?」と質問して「そうだよ」とかなんとか回答をもらっていた。魔法使いみたいな方だ。物販でも少し構ってもらったのだけど、ちゃんと会話してくれてる感じが嬉しかった。全然買う気なかったのに、「拓馬さんがすすめるなら…?」と思わず買い物をしてしまいました。大事に使おうと思う。本当に不思議な方で、気付けば会話に入っているような雰囲気があるし、それでいてちゃんとキャッチボールしてくれる。ほんの少ししか話してはいないのだけれど、こういう会話ができる人になりたい、と思うには充分だった。一緒に参加者になってくれるってこういうことを言うんだろうな。

 

本編の感想

リュズタンを配信で見た時も思ったけど、映像のこだわりがすごい……!表情で細やかな表現をする語り部たちもすごいけど、それをしっかり収めてるカメラもすごい。とくにこの作品はステージがあるわけではなく、客席と世界を作る場所が一緒になっているので本当にドキュメンタリーのような映像作品になっていた。登場人物が階段で上にあがる、というシーンがあるのだが、そこの映像がすごかった。上に続く道に進むカットがあり、一瞬の暗転後上の部屋の内部が映るのだが、実はその映っている場所は舞台上では「上に続く道」と同じ平面にある。映像の繋ぎがうますぎて本当に上に登ったのかのようにみえる。これ、文字で伝わるのかな、もどかしい。

タクムはトベルに対してひたすら献身的だ。理解できないなと思ってしまうのはわたしが利己的だからだろうか。玉座争いがなされたとき、トベルが腹の内をタクムに見せていたとしても、同じ行動をとっていたんじゃないだろうか……。そこにはトベルに笑っていて欲しいという、自我なき願いがあって、すごく哀しくなってしまった。逆にリンリやジュンジュ、ムグはすごく自由な不自由を満喫していて眩しい。この対比があって、それが交わりかけたところで終わってしまうからすごく想像力をかき立てられる結末だった。彼らはこの先どんなふうに生きるだろうか。

めちゃくちゃ無粋な話。最後に出てきた聖杯の中身はお酒だったんじゃないだろうか。20年で発酵している、とか。一気に飲むと急性アルコール中毒になって死んでしまうが、少しずつなら苦味と眩暈程度で死にはしない。とかとかぼんやり考えていたけど、無粋すぎるのでここにメモだけして忘れることにします。

まだ配信でしかみたことがないからだと思うのだけれど、おぼんろさんの作品は一冊の本のように思える。物語作品を本に例えるなんておかしいとは思うけど、ほかに当てはまるものが思い浮かばない。出てくる登場人物は等身大ではないし、リアリティがあるわけではない。セリフの言い回しやアクセントがどこか物語めいている。(「〜けど」ではなく「けれど」の「れ」にアクセントを置く語り部が特徴的のように思われる)しかしひとたび表紙をめくればそこで生きている人物に嘘はないし、どこまでもその世界が広がっている。本を閉じればパッと「あ、物語だったのだったな」と気がつくがまた本をひらけばそこに変わらず生きているのだと信じられる。そんな作品だなあと思ったのでした。

あと、神さまに抵抗するみたいな話がもしかして多いのかな?と思った。わたしは神に対抗するだとか運命を壊すみたいな人間の話が大好きなので他の話も気になるな……。

 

登場人物と演者の名前が似ているのはなんでだろう?と思っていたら、トークショーを聞いて納得。あとトークショーのときの拓馬さんの服装がとっても素敵だった……。

トークショーでは空間作りや言葉による創造の話が出ていてすごく面白かった。参加者との共同制作だから物語がつまんなくても僕のせいじゃない、という話を笑いながら話してくれていたが、自分にはない視点で非常に良かった。そうはいっても絶対に面白いものを作ってきたんだろうなあ!

言葉で暗転を想像させるの、めちゃくちゃウケてしまった。すごい。こういうの、大好きだ。演劇を演劇たらしめる要素ってなんなのだろう。極論、目を瞑ってもらえば舞台セットも照明も衣装も要らない。もっというなら、想像してもらえるのならば、音響も、役者だって要らないだろう。想像させる言葉さえあれば演劇と呼べるのではないか?とはいえそれは観客の負担が大きすぎる。だとすると、音響や照明、セットに役者というのは共同の空間において観客の負担を軽くするためにあるのかもしれませんね。と、言ってしまうのは観客側の傲慢だろうか?

でもこれ、演者側にも同じことが言えると思うんですよね。受け取る気のない観客しかいなかったとして、演劇と呼べないかというとそれは違うと思う。音響照明セットもそうだ。だからこそ、共同制作の場であるべきだし、リスペクトがあるのだと思う。