だいたいうろ覚え

物忘れが激しくなってきたので備忘録

族長の秋 ガルシア・マルケス

この本は読み返さないなと思ったので、学生の時のレポートでも晒しておきます。

今読み直すとマジでなに言ってんだろというレポート(圧倒的に説明が足りなすぎる)なんですけど、当時は高い評価もらってたんですよね。(おそらくは"田舎から出てきた垢抜けない""かつ物怖じしない""若い女性"だったから得た評価でしょうね)

以下読みたい人は読んでください。読んでも読まなくても多分人生に影響はないでしょう。

 

 150歳はゆうに超えているという彼の生涯はどのようなものであっただろう。ギネスによると122歳が世界記録というから、どうあがいても私たちは彼に近づくことはできない。まして彼は大統領という役柄であるので私たちには完全に物語の中の人だ。それどころではなく、彼は物語に出てくる一般市民にとっても異質なのである。

 この話には語り手が存在する。名前は出てこないが「われわれ」なるものとして出てくる。はっきりとした記述はないが、少なくとも常軌を逸脱した人物ではないようだ。一人称を複数形にしているのはおそらく同化作用を狙ってのことだろう。語り手は読者とともに一般の視点で大統領の一生にふれる。

 

裏面からしかこの生を知りえないという運命にあることを、また、現実という迷妄のゴブラン織りの縫い目の謎を解いたり、緯糸を整えたり、経糸の節をほぐしたりする運命にあることを、悟ったのだ。

 

 ゴブラン織りとは、綴れ織りのことで、さまざまな色糸を用いて人物や風景などを精巧に表すことができる。緻密にできた(しかしそれは迷妄である)現実に介入する運命であると悟ったのだ。では生の裏面とはなにか。文は以下のように続く。

 

もっとも彼は、もう手遅れだというときになっても彼にとって生きることが可能な唯一の生は、見せかけの生、彼がいるところとは反対の、こちら側からわれわれが見ている生だとは考えもしなかった。われわれ貧しい者たちの住んでいるこちら側では、果てしなく長い不幸な歳月や、捉えがたい幸福の瞬間が枯葉のように待っていた。(中略)結局、喜劇的な専制君主は、どちら側が生の裏であり、表であるのか、ついに知ることはなかったのだ。われわれが決してみたされることのない情熱で愛していた生を、閣下は想像してみることさえしなかった。われわれは十分に心得ていることだけれど、生はつかのまのほろ苦いものだが、しかしほかに生はないということを知るのが恐ろしかったからだ。

 

生には裏と表がある。大統領がいるところとわれわれがいるところである。もともと人間には一面としての生しかあたえられていない。最初の引用で裏面からしか生を知りえないと悟ったとあるが、それは勘違いだ。彼は生がつかのまであることを知るのを恐れていた。彼にとって生とは永遠であった。もっとも彼が生きた年月は一般の人からみたら永遠のようなものだろう。彼は死を恐れなかった。恐れる必要がなかったというべきか。彼には死が訪れないと思っていた。いや訪れることは理解していたがその本質を理解できていなかった。彼は生を愛さなかった。愛さなくてもそこにあると信じていたからだ。

とはいえ彼にも死は訪れる。それは一般市民となんらかわりないことだった。彼の死に際、死神が彼のもとを訪れる。彼は「まだその時じゃないぞ」と拒絶するも死神はその拒絶を拒否する。

 

この死は思いがけないものだった。これでは生きているとは言えない、ただ生き永らえているだけだ、どんなに長く有用な生も、ただ生きるすべを学ぶためのものに過ぎない、と悟ったときはもはや手遅れなのだと、やっと分かりかけてきたが、しかしそのために、いかに実りない夢にみちた年月を重ねてきたことか。

 

 彼は悟った。とはいえ彼のいう有用な生とは一般市民と隔絶されたものである。彼が自身の生と他人の生が同じであることに気づくことはなかった。

 彼が死ぬ直前のことである。

 

誰もわしらを愛してはいなかったんだな、と彼はつぶやいた。コウライウグイスに色付けをしていた血の薄い小鳥売りの女、全身に青かびの吹いた生みの母ベンティシオン・アルバラドの昔の寝室をのぞきながら、そうつぶやいた。あの世でゆっくり、おふくろよ、休んでくれ、と彼が話しかけると、お前もりっぱに死んでおくれ、と地下の納骨堂の母親が答えた。

 

母親であるベンティシオン・アルバラドは死後に聖女としての資格を手に入れかけた。彼は彼女こそ祭壇に祭られるのにふさわしい人物だと主張したがローマ教皇大使は奇跡は人為的なものであり神意ではないとの決断を下した。彼はそれを受け入れなかった。次にエリトリア人が調査にあたった。しかし結果はかわらなかった。発端は彼にせよ、彼の部下によって行われていたことだったのだ。「お前もりっぱに死んでおくれ」という台詞は母親同様、一般的な生をまっとうせよ、そして死ぬのだ、ということではないか。母親は奇跡の力を騒がれたが普通の人であった。彼もまた、大統領という立場であったが普通の人であった。

 彼の死は民衆に「めでたい」と形容される。民衆は喜びの歌を歌い、熱狂する。彼の残した数々の業績をさしおいて。彼への賛辞が虚偽のものであったとしても、そもそも彼の生死が不明であったときと死が発覚した後も市民の生活は変わらないはずではないか。もともと彼は死んでいたのである。彼がいつ死のうが市民には変化がなかったからハゲタカの襲来まで気づかれることはなかったのだ。民衆はなにに歓喜しているのだろう。それは永遠性との離別だと思われる。「永遠と呼ばれる無窮の時間がやっと終わったという吉報」との記述がある。彼は自分の死について、生について他人と分けて考えていたと前述したが、彼のその思い込みによって彼は永遠の象徴となっていた。誰もが生の永遠を望むがそれは望むだけにとどまる。実際に永遠を手にしたら人々はこれを邪険に扱うだろう。とらえどころのない幸福が永遠に続くわけではないのだ。むしろ生きる期間が長いほど不幸の量も多い。彼の死によって民衆は永遠という閉鎖された時間観念からようやく解き放たれることができたのだ。